雨の日の車の乗り降りが苦手だ。
正確には、傘を使いながらの、車の乗り降りが苦手である。
三十数年経った今でも、いっこうに上手く使いこなせるようになる気配がない。
傘をさしながら自分が濡れないのはもちろんのこと、荷物も濡れないよう、うっかり水たまりに入らないよう、テーマパークの乗り物あるいは水族館のイルカショーさながら水しぶきの餌食にならないよう。
全方位に意識を向けながら、慎重に、慎重に歩く。
だが、そうしてせっかく雨に濡れず車へたどり着けたとしても、車に乗る最後の最後の瞬間に、ものの見事に濡れる。
そこまでの苦労をすべてチャラにするかのように、濡れてしまうのだ。
運転席に座ったときの自分のびちゃびちゃ具合に、いつも驚いてしまう。
「私、傘さしてなかったけ?」
そう思いながら、助手席に置いた、私に負けず劣らずびちゃびちゃな傘と目が合う。
車から降りるときも同じありさまだ。
傘をさした瞬間、まだ濡れるには早すぎるタイミングで、すでにびちゃびちゃである。
どうせ濡れてしまうのだから、傘を開くことに悪戦苦闘してる間にお店の軒先までダッシュする方が、よっぽど被害が少ないのではないかとさえ思う。
悪天候はさることながら自分の不器用さに、いつも「やれやれ」と思う。
大人になってから、とくに30歳を過ぎたあたりから、「これ、大人になれば上手くできるようになると思ってたのになあ」と、ふと思うことが多くなった。
雨の日の車の乗り降り。
粉薬を飲むこと。
仲良くなれない食べ物。
人と気軽に話すこと。
小さなことであたふたとしてしまうこと。
普段は思い出せないような、取るに足らない小さなこと。
そんな些細なことが、大人になっても、まだできないでいる。
ただ、できない代わりに分かったことがある。
大人になったからといって「簡単な(だと思っていた)」ことが、いとも容易(たやす)くできるようになるわけではないのだ、と。
私の「簡単」は、だれかの「簡単ではない」こと。
だれかにとっての「できる」は、私には「できない」こと。
たくさんの「できる」と「できない」で、社会ができているのだということ。
できることもできないことも、全部ぜんぶ含めて「私」なのだろうな、とも思う。
ただせめて、傘は上手に使えるようになりたいな。